林邦史朗とは

林邦史朗の生涯

 1939年1月1日 東京都墨田区両国で、六人兄弟の三男坊として生まれる。(太平洋戦争勃発の2年前)
1945年頃まで(終戦までの幼少時)
両国で空襲に遭い、家族で新潟県三条市(実父の実家)に疎開します。
・・・林少年大・ピンチの時です。
本当に、命からがら…という時代でした。
1946

1950年
(小学生時代)
新潟から一度、千葉県の市川市(実母の実家)に寄せさせてもらうことになりました。
・・・その後は、小学三年生の時に改めて、東京都江戸川区の小岩へ家族で引っ越します。

小学生時代は(小岩に引っ越してからも、ずっと)、千葉県の市川市の学校に通いました。
・・・当時は戦争の爪痕も生々しく、学校教育もなかなか復興には至らなかった時代でした。
小学校もクラス数は多く(何クラスだったかは、忘れた…とは林さんの談)しかも、1クラスに40~50人くらいの大所帯でした。

林少年は時々、学校には行った振りだけをして、こっそりと遊ぶ事もありました。
そんな時はよく、江戸川の土手あたりで、遊んでいました。
邦画の寅さんで有名な「矢切の渡し」や、柴又の帝釈天まで足を伸ばしたり、バンドで着ている物を濡れないように頭に括り付けては、江戸川を泳いで渡る事もしばしばありました(!)
・・・時には、里見公園の方まで泳いで渡ったのだそうです。
(結構な距離なのでは・・・)
そんな様子を見てか、 「江戸川の半魚人」と人に称されるほど、泳ぎも達者になった少年時代でした。
1950

1953年
(中学時代)
小岩の中学校に、みんなと同じように「朴歯の下駄」を履いて登校し始めます。
・・・ですが、グレかけていた林少年。
この頃は皆勤賞もので学校には通っていたのですが、ある日仲間が売られた喧嘩を買って出たりして、とうとう警察に補導されてしまいます。
その時の警察官が、こんな事を言いました。
「そんな事ばかりしていると、ろくな人間にならないぞ。
剣道でもやりに来い!」
・・・林少年は、小岩警察署の道場で、生まれて初めて武道というものに触れる事になりました。

また林少年、生まれて初めて新聞配達でアルバイト。
欲しかったコンビの靴を自分で購入。
この辺りで結構、更正しているのではありませんか?・・・という感のある林少年でした。
1953

1956年
(高校時代)
東京都墨田区(最寄は、平井駅)にある、都立向島工業高等学校に入学。
剣道部がなかったので、自分で作っちゃいました。
その他にも、バレーボールなどを始めて、1年の時からレギュラーに。
バレーボールは自分で部長を務め、水泳部にも、柔道部にも顔を出す人気者になりました。

そんな林少年にも、いよいよ人生の選択の時期が訪れます。
・・・大学に行くつもりはなく、なんとなく就職試験を受けてみたら、受かってしまった・・・。
「自分は、これで良いんだろうか・・・」
さまよう、林少年。
その時(!)
「劇団ひまわり」の団員募集の広告を、新聞で発見致します!
・・・思い立って、役者になる事を「大・決心!!」します。
「自分は、色男ではないから、息の長い、どんな役でも演じられるような役者になろう!」
・・・そんな息子に、もちろん両親は大反対です(!)
何しろ当時は、今とは違って「フリーター」には市民権はなく、「アルバイト」の種類も、ほんの数える程度しかない時代でした。
まっとうな生活とは言えませんから、両親の言う事は、もっともな事でした。

かくして林少年、学校を卒業と共に家を出て、独立する事になりました。
男一匹、行方も定かではないがとにかく、世界へ飛び出した・・・っ!!
1956

1957年
高校卒業後すぐに、「劇団ひまわり」に、所属します。
・・・当時は、この劇団もまだまだ、稽古場を借りてやっているような情況でしたが、現在では代官山という一等地で劇場まで併設している大所帯になりました。
・・・これが縁で、殺陣師・林邦史朗氏は、この劇団に晩年までの20年ほどを、殺陣の講師をして過ごしました。

・・・そんな事とはまだ知らず、その当時の林青年。
「劇団ひまわり」でやはり殺陣の講師を務めていた「大内竜生」という方に見初められて、この人のもとで殺陣の勉強をしていこう、と心に決めます。
1957

1962年
林青年、「大内剣友会」に所属、勉強の時です。
当時はテレビ放送が、始まったばかりでした。
現在とは、想像も付かないような・・・しっちゃかめっちゃかな時代でしたが、時代劇は全盛の頃です。
生放送なので大変でしたが、楽しい時代でもありました。
斬られ役の需要は高く、林青年はちょい役なども演じながら、後に「仮面ライダー」でお馴染み、大野剣友会の道場にちゃっかりと居候。
わいわいやりすぎて、賭博で捕まっちゃった時もありました。
・・・そんな頃、とある誰かが林青年に、こんな事を言いました。
「邦ちゃん、斬られ役ばっかりやってると、そういう根性が染み付いて役者として見てもらえなくなるよ」
林青年、そんな事もあるのかと、一念発起(!)
大内剣友会をやめて、一人でNHKなどを歩いて仕事がもらえるようにと、動き始めました。
1963年大河ドラマは第二作目、『赤穂浪士』が放送中。
林さん、テロップに名前も載ってますがまだまだ、地道な生活を続けていました。
そんな時の事。
・・・そう、本日の「その時」が、やって来たのです・・・っ!
プロデューサーの広江均氏より急に、お声が掛かりました。
「今までにない、リアルな殺陣を、NHKの大河ドラマで、貴方が付けて欲しい」
・・・広江氏は当時、講談浪曲ドラマ(1961年~1964年放送)の演出を手掛けていて、林青年をよく使ってくれていた方でした。
どきどき、わくわく。
紅顔の美(?)青年、林邦史朗氏当時、24歳。
史上最年少の殺陣師(24歳)、林邦史朗の誕生です!

・・・ところで、振り返れば、若気の至りか(?)
「まぁいいか、やっちゃえ~っ」
・・・引き受けました、大河ドラマの殺陣師の仕事です。
そこでまずは、一緒に(危険な事でも)やってくれる仲間を林青年は、探す事になりました。
そして「7人の侍」ならぬ、「7人の命知らず」が集まりました。

当時はまだ、スタントマンという言葉が一般に普及してはいません。
それでとりあえず、グループ名として、こんな名前にしてみたんだそうです。
「若駒冒険グループ」。
現在の名前は、株式会社 若駒プロ。
これ以降、殺陣師・林邦史朗は、NHK大河ドラマに関わり続けて参ります。
1964年NHKでは「講談浪曲ドラマ」や「風雪」などが放送されていました。
林青年はこれらの作品に殺陣を振り付け、殺陣師としても一本立ちをして、正式に働き始めます。
・・・もちろん、翌年の大河ドラマ「太閤記」の殺陣師としても大・奮戦(!)
一生懸命、殺陣の振付から、時にはスタントマンを自ら務めたりする事もありました。
合戦シーンでは、役者の一人として味方になったり、敵になったりと出演する事も致しました。
また、撮影のスタッフの一人として、例えば衣装替えをいかにスムーズにするか・・・などなど。
案を出し続け、いかに迅速で質の良い作品が作れるか、監督の吉田直哉さんを囲んで(振り返れば、1人7役くらいの感じで)、働きぬきました。
1965年大河ドラマ「太閤記(緒形拳・主演)」がいよいよ、放送開始。
この「太閤記の同窓会」は大体、年に1回を目処に、吉田直哉監督を囲んで行われていたそうで、当時は織田信長役の高橋幸治さんが、大の人気者に。
・・・NHKに「信長を殺さないでくれ」という投書が、殺到したという事です。

また、個人的には林さん、現在の奥様とご結婚。
子供も産まれることになり、パパに殺陣師に役者にと、個人的にも、とっても充実していた時期でした。
1968年NHKでは、北大路欣也さん主演の「竜馬がゆく」が放送開始。
・・・林さん、竜馬を斬る刺客として登場しました。

またこの年、TBSで『顎十郎捕物帳』という番組があり、そこで初めて中村泰三郎先生の真剣試斬を目の当たりにし、自分も殺陣師として是非、こういう事が出来るようになりたいと、地元の朝霞から神奈川県の逗子市まで通いました。
1970年NHKの仕事の他に、TBSで大人気番組「8時だよ!全員集合」が始まります。
また「女ねずみ小僧」などの作品も手掛け、いやはや林さん、この頃は寝る暇もないくらいの大忙しでした。
御歳、31歳 。
1975年松田優作さんの「俺達の勲章」なども、手掛けます。
林さん曰く、「松田さんは、むずかしい所もあったけれど、自分とは気が合った」というお話でした。

また、林さん。 「日本伝来の武道」と「殺陣」を融合した「武劇」を創始。
沖縄の「日本海洋博覧会」会場で、武劇を発表致しました。
男36歳、まだまだ、どんどんとやりたい事を追求していきます。
1976年大河ドラマに関わり、TBSでは「青春の門」などに出演をしながら・・・林さん。
以外に、立ち廻りを勉強する場が無い事に、気が付きました。
そこで、いつでも気軽に利用できるよう、「若駒アクションクラブ」をこの年、設立しました。
このクラブで・・・林さん。
亡くなるギリギリまで、渋谷の蔵修館と朝霞の武劇館道場で、スケジュールの許す限りを、自らが稽古を付け続けていました。
1977年NHK「花神(原作・司馬遼太郎)」で、「竜馬の刺客役を、演じてくれ」と和田勉監督から依頼をされました。
「竜馬がゆく(こちらも、司馬遼太郎原作)」の「竜馬の刺客役」に続いて、またもや、またもや・・・。
林さん、歴史上の人物で大好きな「坂本竜馬」を、2度斬る羽目になりました。

またこの年は、殺陣師15周年記念公演として、ABCホールで自ら創始した「武劇」も、披露致しました。
1978年沖雅也さんなどが出演していた「大追跡」で林さん、擬斗指導をしています。
・・・第1回目でしたか。
横浜ロケで、ヤクザの若駒一家がトンファーなど、ちょっと珍しい武器を持って刑事側メンバーと大立ち廻り(!)
この頃のアクションは、とっても格好良くって、みんなの憧れの的でした。
またこの年、日本放送協会より感謝状も戴きました。
1979年「俺たちは天使だ」の擬斗指導も、手掛けました。
・・・林さんは、ヤクザの組長役でも出演。
若駒メンバーで華麗かつ、笑わせてくれるヤクザの立ち廻りを、バンバンと披露してくれました。

また、当時は「東京都俳優生活協同組合」という所で、殺陣の講師も務めました。
林さん、働き盛りの40代に突入 !
1980年NHKでは、「クイズ面白ゼミナール」が放送開始。
若駒メンバーは、時代劇クイズの演技で、大活躍。
また、テレビドラマでは「蒼き狼(井上靖原作)」の放送が始まりました。
・・・林さん、この番組では殺陣師を勤めながら、中国までロケ遠征。
自からも、この作品に出演してました。
・・・この番組のオープニングでは、林さんが(テムジンの吹替えで)馬に乗って、ずーーーーっとゴビ砂漠を行く映像が流れるのだそうですが、この馬がとても具合が良く、撮影中はとっても気持ちよく走れたのだそうです。

またこの年、知り合いに頼まれて、小規模ながらもアメリカのロサンゼルス(ニューオータニ)で「武劇」を披露。
会社の設立何十周年とかいう、大きな企画でした。
その時に見に来ていたラスベガスの、マリーナホテルのオーナーの意向で急遽、ラスベガスでも「武劇」を披露する事になりました。
・・・急に決まったことなので、こちらでも試斬しようとすると、当時は畳表(試斬の材料)がアメリカにはなかったので、やむなくサトウキビを束ねて斬ってみるなど、工夫しました。
1981年埼玉県の朝霞市に、殺陣に関するすべてを総合的に研究・指導する道場を開設しました。
その名も、「殺陣道場 武劇館」。
・・・林さん、長年夢見ていた道場主に。
1982年この年の大河ドラマ「峠の群像」では、弟子を「殺陣師として独立」させました。
もちろん(殺陣指導の方は)弟子を助けながらも、この作品では林さんは、役者として出演しました。

また、沖縄海洋博での実績を買われました林さん。
20名構成で、オランダで「武劇」を公演しました。
1ヶ月の間、オランダ各地で公演していましたが、行く先々で物凄い反響(!)を呼びました。
・・・ですが、スケジュールがなかなか噛み合わず、しばらく海外公演はお休みをする事となりました。
1983年NHKでは、大河ドラマ「徳川家康」を放送していました。
林さんは、知り合いに頼まれて「聖心インターナショナルスクール」で、学生相手に「林流・護身術」を教えることになりました。
・・・またそのツテで「アメリカンクラブ(日本在住の、外国人達の集い。職業的には、新聞記者が多かった)」に招かれて、そこでも日本文化の一つである「武劇」を公演致しました。
またこの年、「殺陣師25周年」を記念して、公演も行いました。
1984年(当時は)水曜時代劇で、役所広司さん主演の「宮本武蔵」が放送開始になりました。
・・・それがいかにも武蔵らしいと、評判の番組でした。
1987年映画「嵐が丘」で、松田優作さんと仕事をしました。
またNHKでは、現在も再放送の声が高い「独眼竜政宗」が放送を開始。
この時の政宗役のイメージが、映画「ラストサムライ」にも生かされたとか、そうではないとか。
1988年大河ドラマでは、「武田信玄」が放送開始。
また林さん、全日本テレビ番組製作者連盟というところから、「殺陣部門個人賞」を戴きました。
1989年この年、ある痛ましい事件を切っ掛けに、日本俳優連合に初めて「殺陣対策委員会」が発足しました。
林さん、初代の委員長を務めましたが、そろそろ50の大台にも乗りまして・・・林さん。
長年の友人である故・中沢敏先生と刀道を極めるべく「全日本刀道連盟」を立ち上げ、最高師範に就任をしました。
1990年大河ドラマでは、「翔ぶが如く」が放送を開始。
「ところで邦ちゃん、竜馬の刺客役を演じてくれるかい?」
との、監督の鶴の一声で、またまや、またもや、またもや(!)
「竜馬がゆく」・「花神」・「翔ぶが如く」でこれまた、3作とも原作は、司馬遼太郎氏(!)
それで結局、3回も竜馬を斬っちゃいました(!!)
・・・林さん、竜馬は嫌いじゃなくて、実はとっても好きなんですが★
「こんなことって、あるんだねぇ~・・・」というのは、本人の談。
1991年大河ドラマでは「太平記」が、放送開始に。
また、林さん。
「林流・護身術」を楽しく勉強できる「国際護身術振興会(IADA)」を、設立。
理事長ならびに、最高師範に就任を致しました。
1992年㈱BABジャパンよりこの年、「真剣刀法のすべて」がビデオ出版されました。
・・・この作品は現在も、DVDに形を変えて全国の書店で販売中です。

そして国際武術博覧会「中国」にて、林さんは金賞を受賞しました。
また、子ども舞台芸術新作フェスティバルの『キッズ&アーツ・イン神戸』にて、日本俳優連合製作による舞台で、「華と剣」が公演されました。
林与一氏を中心に、林邦史朗氏の殺陣を加えた「日本舞踊と立ち廻りの実演公演」だったそうで、司祭役には江見俊太郎氏が。
これがとっても好評だったそうです。

またテレビでは、当時の金曜時代劇で、村上弘明主演の「腕におぼえあり」が放送開始。
今までにないような斬新な殺陣で、これまた、お茶の間には大受けでした。
1995年BSドラマ「龍(ロン)・村上もとか原作」で、林さん。
龍さんの武術(太極拳)の師匠役でも、出演をしました。
1996年阿部寛主演の「天晴れ夜十郎」が、放送開始。
ドラマ立ち上げ時から、林さんはアイデアを連発(!)
現代から江戸時代にタイムスリップした夜十郎が、記憶をなくしていながら、何故か腕が立つという設定。
「古武術の心得があったとしたら、どうか」
夜十郎役の阿部さんは、この時より「真剣刀法」を、林さんより習い始めました。
1999年林さん、大河ドラマ「元禄繚乱」を手掛けながら、60歳で還暦を迎えた記念に、何気なく健康診断を受けました。
ところがいきなり、「前立腺がん」を、医師から宣告される事に(!)
・・・手術を勧められながらも、なかなか仕事の折り合いが付かなくて、薬物投与で急場をしのぎます。
・・・その薬物は何と、「女性ホルモン(!)」でした。

林さん、当時は「逆三角形の体系」を欲しいままにされていたのですが・・・。
・・・女性ホルモンの力は性別を超えて、林さんのマッチョな身体に「おっぱい」が出来るという珍事(!)を引き起こしました。
「ちょっと~~、これ、感じちゃうかも~~」
・・・といった台詞を林さんは、連発し(!)
その場に居合わせていた弟子達に、これまた、自慢そうに出来た「おっぱい」を、見せまくってくれました・・・。
・・・弟子達はなんだか、余りのことに、大笑い・・・★

そんなこんながありましたが、それでもようやく、この年の終わりにはなんとか、手術のスケジュールを入れる事が出来ました。
2000年林さん、年明けて病院から無事に、生還を致しました。
弟子たちも、大喜び。

この年は、21世紀を迎える要の大河「スーパー大河」と称して、NHK側が特別予算を組んで制作された「葵~徳川三代」がいよいよ放送開始に。
この時とばかりにエキストラも総動員して、大幅なロケスケジュールが組まれました。
現場復帰してすぐに、林さんも大忙し。
当時の、本人の言う事には。
「仕事も遊びも、元気にやってます」
2001年テレビゲームが、PSやセガなど、大流行(おおはやり)の、この頃。
ゲーム「信長の野望」では、若駒メンバーがモーションキャプチャーを務めました。

また、壮神社という出版社から「殺陣師見参」が出版。
同出版社からは後日、「護身のテクニック初・上級編」がビデオ出版(当時は、ビデオしかなかった時代★)されました。
また別に、㈱プロデュース社からも「実践武器術大全ヌンチャク・トンファー」がビデオ出版されました。
2002年NHK大河ドラマでは、「利家とまつ」が放送開始に。
またこの年、「プロフェッショナル」という番組で、林さんの殺陣師人生が紹介されました。
これがまた、なかなか好評だったそうです。
2003年大河ドラマでは、「武蔵~MUSASHI~」が、放送開始に。
林さんは、この作品で小野派一刀流の小野治郎衛門忠明役でも登場をしました。

この作品では、あらゆる剣術の流派が出てきましたし、決闘の立ち廻りも数が多く、主役の市川新之助(現・海老蔵)さんがとても振り覚えも良くて林さんは、ご満悦でした。
・・・なので、若駒アクションクラブでは、「柳生新陰流」や「二天一流」の稽古が、数多く取り入れられました。
特に講師は招かずに、林さんが自ら、これらの流派を弟子たちに教えてくれました。

林さんの中では、
「武蔵ではやっぱり、私の中では、鎖鎌の立ち廻りが一番かなぁ~」という事でした。
2004年「新選組!」が、いよいよ放送開始に。
人気役者が数多く出演する・・・この作品でしたから、視聴率も良好でした。
何しろ人気者が多いので、「出演する役者のスケジュールが、ほとんど合わない!」という現象が、起こりました。
・・・NHKでは、平素は「リハーサル日」と「本番日」を別に設けているのですが、この作品に限っては「リハーサル日」は特に設けず、本番の前に諸々、軽く合せて即、本番撮影・・・という収録形態でした。

若駒アクションクラブや、林さんが教えているタレント養成所の殺陣の稽古の時間では、「天然理心流」や「神道無念流」、「北辰一刀流」などの稽古が、繰り返し行われていました。
これらの流派も、稽古場では特に講師は招かずに、林さんの手で行われていました。
・・・林さん曰く、
「他の殺陣師さんは、流派の事は殆ど研究していないと思う。
でも自分は、日本の文化としてもそうだし何より、そういう事が出来る殺陣師でありたいと自分が思うから、こうしているだけなんだ」と語っていました。

またこの年、体育とスポーツ社より「殺陣・武術指導 林邦史朗」が出版されました。
2005年「義経(滝沢秀明・主演)」が放送開始に。
・・・その後、滝沢さんのコンサートで、林さんの振付で「義経伝説」なる演目が披露されました。

また、林さんと芸能プロダクション「オフィス・リバティ(山野亜紀が代表)」協力のもとに、殺陣教育DVD(又はVHS)の「林流 殺陣・初段~現代劇編~」を、ようやく発売にまで漕ぎ付けました。
2006年「功名が辻(仲間由紀恵・主演)」が放送開始に。
また新橋演舞場の演目で、「滝沢演舞場」という作品が行われるようになった、初めての年でした。
・・・林さんは、第2部の「義経」の立ち廻りを振り付け。
いやはや、この年の公演では火事騒ぎも起ったりして大変でした。

殺陣教育DVDの方も、「林流 殺陣・初段~刀法編~」と「林流 殺陣・初段~所作編~」が同時に発売の運びへ。
初段編が3巻、揃い踏みとなりました。
2007年「風林火山(内野聖陽・主演)」が放送開始に。
内野さん、千葉真一さんなど、個性豊かなメンバーの役柄に合った立ち廻りをと、林さんが大活躍(!)
最後のロケ―ション地は勿論、川中島でした。
・・・これが、暑くて暑くて。
しかも日陰のない場所でのロケだったので、この年は本当に大変でした。

2008年2009年の大河ドラマは、「天地人(直江謙継が主人公)」。
戦国時代のお話で、馬の出演も多くある事から、ようやくこの年に林さんの念願であった「劇用馬コーディネイトチーム」が誕生しました 。
そしてこの年、殺陣教育DVDの方も、「林流 殺陣~長物編」を発売になりました。

またこの年、林さんの意向で「真剣試斬と殺陣のワークショップ」を弟子の山野亜紀との共催で始めました。
2009年芸能生活50周年を記念して、東京都武蔵野市の今は無き「前進座劇場」にて、記念公演「名残~NAGORI~」を行いました。
「お芝居」と「武劇」のコラボで行われましたこの公演、大河ドラマの撮影はもちろん、ロケまでが絡み合うスケジュールの中で、公演の稽古も行われていました。
・・・若駒メンバーの何人かは林さんも含め、完徹明けで稽古場に向かう日もありました。

・・・打ち上げの席で、林さんが言いました。
「産まれて初めて50年かけて、主役になってみたいという夢が叶いました。
あきらめなければ皆さんも、50年頑張っていれば主役が出来ます」
との林さんの言葉に、出演者一同が感動の涙をこぼしました。
2011年2011年の大河ドラマは、「江~姫たちの戦国~(上野樹理・主演)」。
女性が主演とはいえ、戦国時代のドラマでしたから、殺陣は色々ありましたが、今や知らない人はいないであろう向井理さんや、子役の特訓が印象深いとか。
2012年この年の大河ドラマは、「平清盛(松山ケンイチ・主演)」。
撮影開始はまず、岩手に1ヶ月、次いで広島に1ヶ月のロケ撮影からでした。
山賊退治、海賊退治と撮影は続いて、猛暑の中でのスケールの大きなロケが印象的でした。

またこの年は夏に、名古屋で企業のレセプション(フランス人の、エリート営業マンをもてなすパーティー)で、「体術などを組み合わせた、武劇ショー」を行いました。
・・・それが行きの高速道路で、静岡辺り。
弟子に車を運転させていたので、ものすごく(!)スピードには気を付けていたのですが、ほんの一瞬の隙にスピード違反の切符を切られてしまい、非常に悔しかったんだそうです。
(そして、運転させていた女弟子に、とても気の毒な事をしたと、後悔をされていました)

またこの時には、名古屋の高速の出口ではさんざん迷うし、駅前の駐車場が地図を見てもよくは判らないし、また名古屋の人が、右折ラインには全然入れてくれなかったので(例の、違反キップを切られた)弟子がほとほと困り果ててしまっていたので、自ら車を降りて交通整理をしてようやく、仕事先に辿り着けたという珍事もありました。

・・・そしてこの年、次の時代を任せるべく(出来れば跡継ぎにと)育ててきた弟子で、もちろん役者で殺陣師にもした竹田寿郎氏が、57歳の若さで亡くなってしまったのには、本当に心に堪えたのだそうです。

それでもこの12月には、廉価で早く上達できる乗馬教室を、神奈川県の神保ライディングクラブで弟子の山野亜紀に協力を求めて開催し、指導も始めました。
2013年昨今は「女性が強い時代だ」と言いますが、この年「大河ドラマ・八重の桜」では、やたら女性の殺陣シーンが多い年でした。
・・・薙刀の稽古風景の撮影も多く、「自分が作った薙刀の組手」から監督に頼んで3本選んでもらい、稽古風景を撮影する事となりました。
・・・勘のいい主役の綾瀬はるかさんは、すぐにこの組手を覚えてしまったのですが、他の女優さん達はけっこう苦労をされていて、宮崎美子さんや秋吉久美子さんはNHKで設けた特訓だけではなく、林さんの道場にまで自主的に来られて、稽古をして行かれました。
・・・この2名はやっぱり、林さんはえらいなぁと思ったんだそうです。
2014年この年は、教えに行っている「劇団ひまわりの劇場」を借りて、林さんとしては「外国人向けの武劇ショー」として考案していた演目を行いました。

とにかく、自分がやるのだから、殺陣を中心に持って来た舞台をやりたいと語った処、弟子が、それだったらという事で「殺陣ライブ」という名前を付けました。
・・・そこで前半は武劇仕立てにしたんですが、後半はまた別の弟子が「せっかくだから、殺陣の演武だけではなく、芝居(時代劇)がやりたい」と脚本まで書いて来ました。
・・・それはともかく。
皆の意向を汲んで、時代劇にしてみようかと思ったのだそうですが、時代劇といえば、鬘(!)
・・・鬘を使うとなると(金銭的に)とっても大変な事になるので、あまりそこには関係がない処で、戦国時代の話を仕立てて、自分で脚本を書いたのだそうです。

この舞台は、先ほどの「殺陣ライブ」と名付けた弟子(山野亜紀)がプロデューサーを務めていて、彼女が「ドリンク1杯のサービスと、おつまみ程度の料理を出したい」と言い出しました。
・・・彼女は料理のHPを作っていて、一応は林さんも「健康アドバイザーとして参加」をしていたので許可はしたものの・・・。
料理はともかくとして、ドリンクとビールの提供はけっこう大変でした。

結局料理の方はこれまた、やっぱり林さんの弟子で料理人がいたので、その人に彼女が頼んでみたところ、快く引き受けてくれました。
・・・たまたまその当時は、その弟子はケータリングの会社に務めていたので、非常に好都合でした。
来て下さったお客さまには、とても好評でした。

またこの年は、高橋英樹ちゃん(林さんは、こう呼ぶ)とコンビで、2つのバラエティ番組に出演をしました。
・・・スタッフが剣術も殺陣も全く判らず。
でも本番にはそんな話を取り入れたいとかで、武蔵はどうであっただとか、とにかく、いろいろに質問をして来ました。
また収録時には、自分が付けていた殺陣を観ていて、サプライズでf高橋さんが演武をしてくれました。
・・・昔は、こんな事をよくやったのだというお話でした。
2015年1月1日、76歳の誕生日を迎える。

6月の半ば頃から身体の不調を感じ、(検査を含めた)通院生活を始めます。
大河ドラマ「花燃ゆ」と、木曜時代劇「まんまこと」の殺陣・武術指導及び出演もありながら、8月26日まで「自分の稽古場での指導」や、「養成所での殺陣指導)」と、自ら手掛けていたワークショップなどでも指導をしていましたが、28日に通院した処で、病院の意向で緊急入院をする事になります。

9月になって、検査の結果(膵臓ガン)を受けてからは、本人の意思で9月19日に自主退院。
21日には、かねてよりプロデューサーから依頼があり、また弟子でその名を継いでいた中川邦史朗が殺陣・武術指導を務める2016年度の大河ドラマ、「真田丸」に武田信玄役で出演。
本人の希望で23日、最後の新聞取材(読売新聞)も行われました。

・・・翌月(10月)29日、永眠。
11月の3日が通夜で、4日が葬儀と決りましたが、10月31日土曜日の通常の殺陣の稽古は「師匠の意思を継いだ弟子達」により行われ、翌日1日には、本人が8年間続けて来たイベント(真剣刀法と殺陣の体験WS)を、ご家族の意向(林先生が、人が集まって賑やかにしているのがお好きであったからとの事)で、弟子で共催していた山野亜紀(病床で「邦史朗」の名を託されていた事もあり)が引き継いで開催しました。
・・・葬儀にはたくさんの方が訪れ、会場には本人が好んだ長渕剛の曲が流れ続けていました。
2016年
以降~
それまで8年も続けて来た「真剣試斬と殺陣のワークショップ」ですが、武劇館道場が林さんの自宅でもありましたので、親族の意向で終了を致しました。

乗馬教室の方は、乗馬会員の意向で山野亜紀が続けていましたが、2018年3月に馬場の持ち主が変更になった事から、閉会の運びとなりました。

関連記事

  1. 出版著作物(リバティプロデュース)
  2. 出版著作物(外部出版)
  3. 師匠筋紹介
  4. 林邦史朗創始の護身術とは?
  5. 林邦史朗創始の真剣刀法とは?
  6. 林邦史朗・プロフィール
  7. 殺陣・武術指導歴
  8. 林邦史朗の武劇
PAGE TOP