お江戸の作法教室

第七話 風太郎、道で人と出遭う(後篇)

「波和湯。その連れは一体、何者なのだ」
 ・・・そう言われて、風太郎。
 さり気なく己が身で気儘之介の姿を隠しながら、独り者の頃に通っていた道場の、仲間である・・・と告げた。
 そこは、気儘之介である。
 如才なく頭から手拭いを取って、幾之介に丁寧に頭を下げてみせた。
「初めまして。おら、きままです」
 気儘之介の身なりを一瞥して、幾之介は興味を全くなくしたようだ。
 ・・・いや。声を掛けた事すら、その声音は悔やんでいるようである。
「・・・・・・波和湯。いつまでもこのような者と、付き合っていては。お役には、立てないぞ」
 言い捨てて、幾之介は二人に背を向けて再び歩みだした。
 気儘之介がその背中に蹴りを入れようとするのを、必死で止めながら。
 ・・・風太郎は小さく、笑った。
「仕方がないだろう・・・俺はもともと、昔から悪筆だったんだ。それを承知で義父上が、俺を婿に入れて下さったんだ。・・・まだまだ、俺は半人前以下で、いつも皆に迷惑をかけているのだ」
「・・・でも。あぁいう言い方はないぞ、風太郎」
 着物の併せを調えながら、気儘之介は叫ぶ。
 ・・・それでも、と風太郎は笑ってみせた。
「・・・あいつは、仲間一番の出世頭だ。波和湯の家とは違い、江戸のお屋敷内に家すらある。・・・火急の折にも屋敷に近い分、俺よりは余程お役に立てるだろうよ。・・・今だって、仕事では俺は、あいつには頭が上がらぬ。だからあいつの言う事は、もっともな事なのだ」
 風太郎の顔を見ながら、気儘之介は大きな溜息をついてみせた・・・。
 それにしても、と呟く。
「・・・・・・俺はぁ。せつないぞ、風太郎」

 その時風太郎は歩きながら、またも道の向こうからやって来る人影に気が付いた。
 道を左へと譲ろうとして、今度はあちらから声を掛けてきたものだ。
 見ると。
 風太郎の上司に当たる、達磨 包盛(だるま・ほうせい)である。
「波和湯。こんな夜にどうしたのだ。里絵殿が待っているぞ。夜遊びなどせんで、早く家へ帰らんか」
 風太郎は先程と同じように、左に道を譲って立礼をしている。

 武士というもの。 身分制度が、厳しく定められている。
 道の途中でもしも上司に会うような事あらば、必ずこちらは先に道を譲らなくてはならぬ
 上司の方はといえば。
 こちらは道を、左へと譲る必要はない。
 そのまま、真直ぐに通り抜けるだけで良い

 良いのだが達磨はそうせず、丸い顔をつるりと撫ぜて、ニコニコと笑った。
 風太郎の亡き義父の将棋敵だったとかでこの男、割に風太郎の面倒をよく見る。
「里絵殿は息災か」
「はぁ・・・。相も変りませず」
「先日我が妻が会ったそうだが。昔と変らずに美しかったそうな」
「はぁ・・・。私も、頭が上がりませぬ」
 達磨はちょと黙り、風太郎の耳元にこそっと小声で囁いた。
「子はまだ、・・・出来ぬのかな」
「は・・・・・・。なかなかに」
 その言葉で達磨はちょっと、腕を組んで悩んで見せた。
「・・・風太郎。男は強気で攻めねばならぬぞよ。特に、女房殿にはな」
 そして何を思ってか、はっは・・・と笑い。
 そして気儘之介にも軽く会釈をして、悠々と達磨は二人の前を、通り過ぎた。
 勿論、気儘之介が風太郎の為に、道を達磨に譲っていた事は、言うまでもない。

 ・・・達磨の、丸い背中が遠くなるのを見計らって・・・二人はまた、波和湯家目指して、歩み始めた。
 バツが悪いのか、風太郎はずっと黙っている。
 気儘之介は、何となく。
 風太郎に尋ねてみた。
「里絵殿は、悪妻なのか」
「いや」
 風太郎はすぐに反応して、首を振った。
「そうではない。とても良くできた人だ。女にしておくのは惜しい程の、・・・その」
そして困ったように黙り・・・。
 そしてまた、首を振った。
「・・・里絵殿は。俺などよりは余程、お役目が勤まる程の力を持った女子(おなご)なのだ。・・・何故お役目を勤めるのが、男ばかりなのか。本当に、悔やまれる程に・・・だから。だから、俺は・・・」
 ・・・そんな事を言われては、聞いていた気儘之介の方が、困ってしまう。
「・・・・・・・・・まぁ・・・。お前は、波和湯の家も入って日が浅いから」
 宥めようとするのを止めて、風太郎は苦笑する。
「いいや・・・。本当を言うと、子供どころか」
「・・・・・・・・・うん」
「あまりにも里絵殿が素晴らしくてなぁ・・・。あの人の前に、まるで鳥居でも建っているような・・・」
「鳥居・・・・・・」
 何と言えば伝わるのか・・・。
 そう思って風太郎は顔を上げた。

 その時。
 我が家の前に、誰かが立っているのを風太郎は見た。
 誰かと考える内にもその人は、こちらへと歩みだす。
「・・・・・・・・・誰だろう」

 こちらからも歩み寄ったときに、風太郎は、はっとした。
 慌てたように歩んで来た道を左へと譲って片膝を付いた
 そして、膝を付いた方の手の指先を地面に付けて、頭を垂れて控えた
 ・・・無論、面は伏せている。
「何だよ、風太郎。どうしたん・・・」
 ・・・だと、言いかけて、気儘之介は不意に、口をつぐんだ。
 そして向こうから。
 ・・・悠然と、歩み寄ってくる人物と・・・目が、合った。
 風太郎は・・・。
 ただ、ひたすらに頭(こうべ)を垂れて、控えている。

 ・・・・・・月明かりの中に浮かんだ、その顔は。
 安毛良藩(あっけら・はん)藩主。
 葉々成政(ぱっぱ・なりまさ)、・・・その人であった。

 ・・・・・・もしも、殿様に道で会うような事あれば。 その方に仕える武士は、即座に道を譲って控えなければならない
 そして、殿様が通り過ぎてから。
 ようやくに、その同じ道を歩むことが出来るのだ・・・。

 ・・・・・・風太郎は、控えている。
「久し振りだな、気儘之介」
 成政候は、息子に向かって声を掛けた。
「う・・・・・・・・・」
 唸ったきり、声が出ない。
 ・・・未だ父とは。
 呼ばずに済ませていた、気儘之介であった。

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