お江戸の作法教室

第九話 殿さまとの謁見(武道礼)

 気儘之介が一人、湯殿で悶々としていた頃・・・。
 風太郎の方はそれこそ、戦場のような賑わいであった。

 里絵に事の次第を尋ねた処、・・・そこは里絵、やる事にぬかりはなかった。
 まず、家の者には全く、成政候の身分を知らせてはいない。
 主の客・・・としか、知らされていないのである。
 ・・・・・・どうりで。
 下男も女中も、のんびりとしていた筈である。

 あのお方の身分を教えてくれたという・・・馬の鞍は。
 今は波和湯家の方で外して保管してあり、隣りには馬のみを預けてあるそうな。
 ・・・そして、予定としてはあのお方は、夜の内に帰る心積り・・・である事。
 それに合わせて、馬の引き取る時間を何時にするのか。
 はたまた、気儘之介と会わせるのは、どの部屋で行うのか。

 ・・・忙しく遣り取りをする内に・・・どうにか、風太郎の支度が整った。
 上様の事も気に掛かるが、気儘之介の事も気になる。
 つい、その名を口にした所で風太郎、すぐさま里絵に叱られてしまった。
「あの方よりもまずは、貴方様の方です。さぁ、いってらっしゃいませ」
 里絵が、手を付いて・・・風太郎は夫婦の部屋から、波和湯家の客間へと送り出されてしまった・・・。
 主の出で立ちとして、今日の風太郎。 袴を穿いて、腰には小刀のみを帯びている。

 ・・・風太郎は、客間の前まで来て一度大きく、深呼吸をした・・・。
 そして丁重に、両の掌を・・・付いた。
「もし・・・。当家の主でござる」
「うむ。待っていたぞ」
 風太郎は、障子に手を掛けた・・・・・・。

 武士という者。
 殿様と謁見をする時には、無論のごとくも作法がある。
 ・・・まずは、女子と同じように障子を開け閉めし(第5話『茶を持て』参照)、部屋に入ってすぐに挨拶をする。
 それは正座で行うのだが、両足の指は重ねない
 そして両の膝の間隔は、拳一つ半位離しての正座である。
 何故なら、もし武士が「両足の指を重ねて座って」いたら。
 ・・・一つになったこの足を、踏まれでもしては、たちまち身動きがとれなくなってしまうのだ。
 両の足指を離してあれば、どちらかの足を抜き外して振り返り、相手を制する事も出来よう

 ・・・それと、正座した時両膝の間隔であるが。
 双方対座をしていたとして、もし自分がその幅を広げ過ぎていては
 何かあった場合に(例えば交渉が決裂した時などに)、相手に己の金的(男性の急所)に一息に膝で乗られてしまっては、武士の一生の不覚であろう。
 そして逆に狭すぎては、これは見た目にも武家の者らしくなく、窮屈な印象を与えてしまう。
 ・・・広げすぎず、狭すぎず。
 だから大体、拳一つ半位の間隔と言われている・・・。

 さて風太郎は、まずは袴を捌いて正座をする。
 ・・・この場合の袴捌きとは、まずは右の掌で左足から。
(右手を使えば武士は抜刀できぬ。ゆえにこれは、相手に危害を加えないという意味にも繋がる)
 己の脹脛(ふくらはぎ)の辺りの袴の生地を、内から外へと軽く叩く事で折り曲げ、まずは左の膝を付き。
 それから、同じ要領で右の脹脛の辺りを捌くとこれで、両膝を付いた事になる。
 この様にして正座をすれば、袴の裾は膝から踝(くるぶし)の方までヨレる事なく、きれいな線を描いて収まるのだ。
 ・・・これとは別に、両の掌を使って同時に膝裏の生地を外から捌いて左右同時に膝を付いて正座する方法もある

 風太郎は正座をし、まずは左手を自分の前に付く。
 その後に、右手を左手の位置と合わせて付く。
 ・・・この時はかならず、両の五指を揃える
 そして、平伏をした。
 この場合は、胸から降ろすようにして両の肘が床に付くまで曲げ、床と並行になるまで頭を下げる。
 ・・・すると、顔のすぐ前に両手がある事になる。

 もしもこのまま上から頭を押さえ付けられても、この両手の隙間が鼻の位置にあるから呼吸は出来るし、また両肘をもって堪える事が出来るのだ。
 ・・・そして、床と並行な位置に顔を降ろす事で、己の真後ろ以外視界が利く
 それは即ち・・・何か、事が起これば即、対処が出来るという事なのである。
 そしてこの場合には、床と顔の位置が並行・・・という事は、上様からは、首筋は見えぬ・・・。

「・・・面を挙げよ」

 上様の声に風太郎は、一度肘を伸ばす辺りにまで顔を挙げ、右、左と手を引いて軽く太股の上に置いた。
 ・・・この時肘は、突っ張りすぎず。
 両の親指は必ず、人差し指の側に添えている。
 言うまでもなく、親指は急所であるからだ。
 親指を取られてしまっては、武士は刀も握れぬし、何も出来ぬ

 顔を挙げて風太郎、初めて藩主殿の顔をじっくりと見た。
 ・・・その顔は気儘之介に、似ている・・・ように見える。
「そちが、阿呂波風太郎(あろは・ふうたろう)か・・・。いや、波和湯の家の婿になったのだったな。では今は、波和湯風太郎となったものか。うむ。そうなってそろそろ、一年を過ぎた頃か」
 ・・・言われて、風太郎。
 心の動悸を、押さえながら・・・言った。
「恐れながら申し上げます・・・。上様は、もしや私の事を・・・」
 葉々成政(ぱっぱ・なりまさ)は、掌の中で弄んでいた扇を、バチンと勢いよく閉じた。
「うむ、存じておる。ゆえに、気儘之介の行く先もすぐにわかった」
 ・・・これを、どう受ければ良いものか・・・。
 風太郎の背に、じっとりとした汗が滲む。

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