お江戸の作法教室

十三話 里絵のきもち(女性の膝行)

 風太郎が、上様との謁見を終えて、部屋を出た。
 振り返ると里絵がそぉっと、曲がり角の向こうからこちらを伺っている。
 ・・・考えてみれば先程上様から、手痛い叱責を受けたばかりの風太郎なのである。
 その怒声を聞いて里絵、不安にかられたに違いない。

「・・・・・・気儘之介は」
 ・・・言ってしまってから、はっとした。
 気遣ってくれている里絵にまず、労いの一言を与えるべきでなかったか・・・。
 そんな風太郎の思いを、知ってか知らずか里絵は言う。
「只今お支度整いましたが、いかが致しましょう・・・?」
「うー、む」
 友の・・・。
 いや、今では、あの方のお気持ちは・・・と言ったものか。
 久方ぶりに会う、実の父上と対面する気構え・・・というか。
 心意気とでも言おうか。
 ぶちゃけて言えば、腹はきちんと座っていてくれるのだろうか・・・?

  夫婦(めおと)の会話が、藩主・葉々(ぱっぱ)成政の耳に届いたのか・・・?
「奥方か。入ってまいれ」
 襖の向こうから、上様の声がする。
不安を隠しきれない里絵に、風太郎はゆっくりと頷いてやった。
「上様が言われるなら・・・。私は気儘之介を、諭してまいる」
「は・・・ぁ・・・」
 気丈そうに見えてはいても・・・そこは、里絵も並みの女子(おなご)。
 風太郎以上に殿様という存在に対して、免疫はない。
 不安がる里絵を送り出し、風太郎はすぐさま気儘之介の居る部屋へと向かった。
 ・・・何か、嫌な予感がする・・・。

 案の定客間へ行くと、気儘之介の姿は無かった。
「おのれ・・・」
 この期におよんで・・・とか、何を今更・・・とか。
 つい、昔の口調が口を突く。
 風太郎は真っ直ぐ、台所へと向かった。
 互いの身分は変わってしまっても、その付き合いはけっこうに長い。
 気儘之介の行く所など、風太郎は見通していたと言って良い。

「・・・・・・どうしたのだ、もそっと近ぅ寄れ」
 ・・・夫に殿様の下へ送り出されたものの・・・。
 その時の里絵は、はっきり言って動揺していた。

 主の帰るまでは、とにかく必死だったのだ。
 家人に、上様の身分を悟られてはならぬ、気付かれてはならぬ・・・そして失礼の無いように、と。
 その思いで、一心に上様の風呂の世話と、食事の世話をしていたのだ。
 だがしかし、こうして気儘之介と風太郎を迎えて実は少し、気が抜けたのか・・・?
 上様の前にこうして手を付いてみると、おのが指先が震えているのが判る・・・。
 しかも上様は、一番側近くまで寄ってまいれと、おっしゃるのだ・・・。

 里絵はその折、入室をしてすぐお辞儀をした所、もそっと近ぅ参れと言われ立ち上がり、摺り足をして・・・今少し。
 部屋の真ん中辺りで座って、再度お辞儀を仕掛けた所だったのである。

「・・・どうした、もっと近ぅ参れ」
 ・・・震える指を叱咤しながら、里絵は顔をようやく上げた。

 当時の女子(おなご)の下着は、腰巻一枚。 文字通り腰を布一枚で巻くだけで、しかも紐一本で縛り押さえているだけである。
 ・・・で、あるから。
 股を開こうなどとは、当時の女は絶対にしなかったと思うしまた、思いつきもしなかったことであろう。
 膝頭をぴったりと合わせ、どんな行動も、それを崩す事はない。

 上様の一番側近くに寄る為の足捌き・・・つまり膝行(しっこう)は、男と女ではその作法は違っている
 女である里絵はまず、座っている姿勢から両の足の爪先を立てる
 着物のすそが乱れぬように、まずは裾を指先で押さえ(この折、五指は揃える)

 まずは片方の足先を進めて、もう片方の膝の位置まで進め合せて・・・そのまま。
 両の爪先を立てたままで、両膝が揃う位置まで滑らせていくのだ。
 右が終れば、次は左から。
 これを繰り返してようやく・・・上様の側近くまで寄れるのだが、この十二畳間では、2・3回も行えばすぐに側まで来れてしまう。

 ・・・これ程殿様の側近くに寄れること、幸運と呼べば良いのか、不幸なのか。
 気儘之介の一件がなければそんな事、里絵には生涯訪れる事はなかった筈である。
「・・・面(おもて)をあげよ」
 膝行の作法で、上様の側近くまで寄った・・・里絵。
 そして作法の通りに、ひれ伏していた顔を・・・上げる。
 だがとても、上様の目を見る勇気はなかった。
 相も変わらず葉々成政。
 扇子をその手で弄んでいたが、その手を不意に・・・止めた。
「此度は、そちを驚かせたな・・・許せ」
 なんと、上様が里絵を労った物である。
 余りの事に床にすがり付くような形で、里絵は再びひれ伏してしまった。
「滅相もない・・・っ。 そんな、とんでもない事でございますぅっ」
「まぁまぁ、頼むからその顔を上げてもらおう。堅苦しくて、話が出来ぬわ」
 ・・・言われて。里絵は、思い切って上様の顔を見上げた。
 上様のその目は、優しく微笑っている・・・。
「・・・ふむ。奥方の方が、肝が据わっていると見える・・・。ご亭主殿は、わしの顔を真っ直ぐには見れなんだが」
「・・・あの人は・・・。あ、主は、余りまだ、この家にも、慣れてはおりませぬで・・・」
 ぶつぶつと切れる会話に、成政はその眉を寄せた。
「主殿とは、上手く行かぬのかな・・・?」
「・・・・・私には。あの人が、どう思ってこの家に居るのか、解りませぬゆえ・・・」
「・・・・・・・ふむ」

  後で後悔する事になるのだが・・・里絵。
 父を亡くしてからそんな事を聞かれたのが、久しくなかったせいであろう・・・。
 まるで失き父に語るが如く、何故か成政に語っていた・・・。
 成政の年頃が、失き父・春重に似ている・・・という訳でもないようだが。
 内容は、女がよく口にするような、ごくごく、たわいない事ばかりである。
「・・・ですが、女子(おなご)には。たわいない事が、全てでありまする・・・」
「・・・・・・・ふむ。・・・そちの言う事、わしも少々、思い当たるようじゃ・・・」
 里絵を前にして成政、何故か心持ち、神妙な態度を見せている。

「何処に居るのだ、気儘之介。隠れていないで、出て来るのだ」
 その頃の・・・風太郎。
 気儘之介が居ると思われる台所において、釜戸の前ではその姿、見出す事は出来なかった。
 だが、風太郎は己の勘を信じている。
 前にもあったが、このような時は大抵、気儘之介は台所か物置に隠れる習性がある。

 案の定、気儘之介は台所にある納戸の中で、たった一人で酒盛りをしていた。
「酒を飲んでっ。寝てしまえば、何とかなると思っているのだろうっ、気儘之介っ。外へ出るんだっ」
「やらよぉ。もう眠いんらおぉ、明日にしろうおぉ・・・」
 納戸の柱にしがみ付いて、ガンとして動こうとはしない。
「馬鹿者っ、まったくお前という奴はっ」
 ・・・妻を前にして一言も上手く喋れない者が、この男の前ではよく語るものである。
「一体いくつなんだ、お前っ。実の父上がっ、しかも上様がお前の為に危険を冒してまでいらしていると言うのにっ」
 負けじと気儘之介も、言い返す。
「だが今はっ。謀反もまぁったくぅ、全く無くってだなぁ、天下平和な世の中じゃないのかっ」
「うるさいっ!江戸屋敷を出てここまで、たったお一人でっ。供も連れずここまでいらしたのは一体、誰の為だと思うのだ、この親不孝者っ」
 逃げようとする気儘之介の頭を一つ、ポカリと殴りつけたものである。
 ・・・後で泣くほど後悔する事になるのだが、この時ばかりは風太郎。
 怒りに、その身を任せてしまっている。

 ・・・・・・なに、稽古時代には、この二人。
 喧嘩するほど仲が良いで、こうやってポカリポカリとやっては、また仲直りをした仲なのだ。
 ・・・・・・で、あるが。
 上様の御落胤に対して、果たして現在の身分の自分が、そんな事をして良いものか・・・。
 そのような配慮は、あれ程成政に言われていても・・・風太郎。
 今一つまだ、自覚の方が足らぬようである。

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