お江戸の作法教室

第十四話 選手交代・気儘之介(男性の膝行)

 ポカリ、ポカリと拳骨の応酬があり。
 気付いた時には風太郎と気儘之介二人、共に台所に倒れていた・・・。
 激しい一発がお互いに炸裂したものか・・・。
 一瞬、気を失ったようである。

 気儘之介が気付くと、目の前に見た事のあるような顔が・・・見えた。
 その顔とは、今現在で気儘之介が一番見たくないと思っていた・・・顔だった。
 思わず気儘之介は起き上がろうとしたが、浴びるように飲んでいた・・・酒である。
 そこへ風太郎との大立ち廻りを演じたものだから、すっかりと腰抜けになってしまっていた。
 手を付こうが、足を伸ばそうが、何としても力が入らぬ・・・。

 風太郎が成政に気付いて、台所から土間まで転げ落ちるように飛び降りてまず、平伏をした。
 その隣で・・・今は里絵。
 こちらも、慌てたように板の間から飛び降りて、主人より深く頭を垂れている。
「申し訳ございませんでしたっ、上様のご子息をこのような・・・」
 夫婦二人して、口々に同じ事を言っている。
 ・・・そんな二人を、そしてこれをどうしたものか・・・?
 安毛良(あっけら)藩主・葉々(ぱっぱ)成政は、あきれたように・・・。
 つくづくと、己が息子を見つめて呟いた・・・。
「・・・一体、何をやらかしているのだ・・・お前は」
 言われて・・・気儘之介。
 悔しいが指一本、力が入らない。
 頭から手桶で一杯、水を掛けられ。
 そのまま、再び風呂に放り込まれてしまった・・・気儘之介である。
 その心の中は絶対に、これだけは見せたくなかった・・・その姿を。
 実の父親に、しみじみと見せてしまったという後悔で・・・一杯である。
「無念・・・・・・」
 さすがの気儘之介も、これ以外には言葉が出ない。
 しかも自分のせいで、幼い頃からの友が再び上様の叱責を、買ってしまっている。
 ・・・己が藩主の息子に手を上げてしまった訳だから、風太郎の行いは、身分を越えた越権行為であった事になる。
「先程あれほどに、言っておいたものを・・・」
「大変、申し訳ありませんでしたっ」
 ひれ伏す風太郎のせいではない、と気儘之介は言いたかったのであるが。
 口をついて出た言葉は、なんと。
「ひひふぇ、ふうらおぅのえいえは・・・」
という、日本語を遠く飛び越えたものであった・・・。
「気儘之介、いい加減にせよっ!」
 言われてザブリと、体の底から冷えるような水が掛けられていた・・・・・・。

「はぁ・・・・・・」
 いくら極楽トンボの気儘之介でも、この度ばかりは、溜息ばかりが口を付く。
 水をたらふく飲んで、汗にして酒を抜こうという秘策であるが・・・それにしても。
「苦手なんだよなぁ・・・俺」
 湯船の中で、頭痛を覚える気儘之介である。
 ・・・まさか、こんな所まであの男がやって来るなんて。
 気儘之介、胸の中でその言葉ばかりを繰り返している。
「里絵殿もなぁ・・・、驚かれたことだろう」
 風太郎など、あの男の前でひれ伏してばかりいる。

 ・・・自分が、勇気を持って挨拶をすれば良かったものを。
 つい、あの男と相対するのが嫌さに、酒に逃げてしまっていた・・・。

 武士にあるまじき行いであるが、あの男とは、どうしても。
 どうしても向き合いたくなかったのだから、仕方がない。
 だがこれでもう、逃げたくても・・・逃げられぬ。
 気儘之介は己自身を叱咤激励しながら、どうやら湯船から立ち上がった。

「・・・気儘之介、参りました」
「うむ、入れ」
 声を掛ける前に、廊下の陰でこの言葉を何度も繰り返して、練習をした・・・。
 実父の叱責を買うのは今や、判りきっていると言ってよい。
 だがその前に、自分の気の弱さをあおる様な・・・声の震えを止めようと思った、気儘之介である。

 3度練習をしてようやく、まともに声が出た。
 ・・・何しろ実の父とはいえ・・・気儘之介。
 この男と会う事など今でも、数えるほどでしかなく。
 言葉を二人きりだ交わしたことなど、さらに少ない。

 作法の通りに気儘之介は、部屋の外で挨拶をした。
 この折は片膝片手を軽くつけて襖の前で軽く会釈をする。
 あの男の言葉どおり・・・に、襖を開けて部屋に入り、平伏をした。

 気儘之介の心の中では、しつこい程に「あの男」と呼ばれている・・・この男。
 葉々成政候は、相も変わらずに扇子を弄んでいたが、息子を見ると勢い良く扇子を閉じた。
「近く参れ、葉々気儘之介」
「・・・はっ」
 嫌だが、致し方がない。
 この男に逆らえる身分を、今の所気儘之介は、持ち合わせていないのだ。
 声だけは元気がいいが、本心ではげんなりとしながら。

 それでも作法の通り、立ち上がって摺り足をしながら、いま少し寄って正座をする。

「何をしている、もそっと近く参れ、この愚か者」
 げぇーっ・・・。
 気儘之介の胸の中を、雄叫びが激しく、こだまをする・・・。
 そんなに近く寄らなくても、話は済む。
 言いたいだけ言っていっそ、帰ってはもらえまいか・・・。
 様々な悪態が胸の内を駆け巡るが何しろ、相手は安毛良藩の殿様であり、実の父親である・・・。
 気儘之介に、選択の余地はなかった・・・。

 もう、どうにでもなれという心持ちで、気儘之介は唇の端を上げてみた。
「お心のままに・・・成政様」
「ばかもの」
 ・・・・・・久し振りに聞いた言葉が、たったこれだけ。
 いかな気儘之介でも、かなりキツイものがある。
 成政は、息を吸って再度こう言った。
「側近くまで参れ、不肖の息子よ」
 ばかもの、不肖、おろかもの。
 一体今日一日で、どれ程の罵声が自分に、掛けられるのであろうか・・・。

 気儘之介は、意を決して両の足を生かす(爪先を立てる)
 そして片膝を立てて前に出し
 その踵に後ろ足の踵を、引き付ける
 そして前の方の足の膝を畳に付け、此度はもう一方の足を前に出して、その踵に後ろ足の踵を引き付けた
 この狭い部屋では、これ程の回数で上様の側近くに来てしまう・・・。
 だが、広い江戸屋敷では、もっとその回数は多かった。
 この折、頭の高さをなるべく水平に揃える
 胸は、張る。
 そして両の手の五指は、足の付け根の辺りで勿論揃えている

 膝行を終えて・・・気儘之介。
 腹を決めて、平伏をした・・・。

 その頭を成政の扇子がいきなり、はたいた。
「痛い」
 つい、気儘之介も声が出てしまう。
 それを聞きとがめて、成政が言った。
「痛いじゃと?この、愚か者めが。・・・面を、上げてみよ」
「・・・お許し下さい、成政様」
「いいから面を、上げてみよと申すに」
 平伏をしているとまた、ポカポカと扇子ではたかれそうなので、仕方なく・・・気儘之介は、作法の通りに面を上げた。
 目の前に、あの男の顔が在る。
「こりゃ、今日は一体、何をしておったのだ」
「はぁ・・・」
 いくら上様にでも、一日の行動を悟られてしまうのは面白くない・・・気儘之介である。
「どうせそれ、幼馴染の赤提灯の所へでも行っていたのであろう」
「・・・・・・・・・・・」
「その前は道場に行って、風太郎に会うたな」
「・・・・・・・・・」
「菜花(なばな)が、どうせその辺りの事であろうと、言っておったわ」
 ・・・菜花様とは現在、安毛良藩藩主の正室であり、気儘之介の産みの母親である。
 気儘之介はこの母の細腕一本で、17の年まで育てられてきたという訳である。
 ・・・故に。この息子の行動範囲を菜花は、知り抜いていた・・・と言ってよい。

 傍らに、そんな立派なアンチョコがあるのでは、気儘之介としても実にやりにくい。
「申し訳ございませんでした」
 もう平伏をする気力もなくして、うな垂れてしまった・・・気儘之介である。
 腕組みをして、成政は唸った。
「お前ももう少し、大人になってだな。脱走は、心得てやるが良い」
「は・・・・・・・?」
 葉々成政候はまたも、こう言った。
「お前はやり方が下手だ。はっきり言って頭が悪すぎる」
 ・・・気儘之介としては、予定外の事の成り行きになった訳だが。
 それが果たして、喜ばしい・・・事なのか。
 今の気儘之介には、察しが付かない。

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